千葉常胤の「塞翁が馬」相馬御厨顛末記 前編【稲毛新聞2025年6月号】
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2025/6/5
千葉一族盛衰記 第二十五話 作/歴史噺家 けやき家こもん

前稿では千葉常重が1130年(大治5年)、自身の相馬の領土(現在の柏市)を、伊勢神宮の内宮に寄進したことで、相馬御厨が誕生した経緯をお話ししました。相馬御厨をめぐる変遷を思うとき、私は「塞翁が馬」という中国の故事成語を思い出します。「塞翁が馬」というのは、人生の幸不幸は予測できない、というたとえです。
この語源となる出来事を簡単に説明します。ある老人が飼っていた馬が逃げ出した(不幸)けれど、しばらく後その馬が立派な馬を引き連れて帰ってきた(幸福)。しかし、老人の息子がその馬から落ち足を骨折(不幸)。結果、足が不自由であることを理由に息子は徴兵を免れた(幸福)。
千葉一族の長い歴史そのものが「塞翁が馬」という解釈もできそうですが、そもそも歴史の営みそのものが「塞翁が馬」といえるのかもしれません。
それでは、千葉常重常胤時代に発生した、相馬御厨をめぐる一連の騒動をみていきましょう。常重が相馬御厨を伊勢神宮に寄進した5年後の1135年(長承4年)、常重は常胤に家督を譲ります。ここに、かの有名な千葉常胤が誕生したわけです。しかし、この翌年の1136年(保延2年)に、下総の国司である藤原親道(ちかみち)は、公田官物の未納を理由に常重を召し捕らえてしまいます。忠常のころまでは拮抗していた国司と有力地方豪族の力関係が、院の後押しにより国司が絶大な権力を握るにいたったことがわかるエピソードでもあります。捕らえられた常重は、相馬郡と立花郷(後の橘庄、香取市、香取郡東庄町)を親道に譲る、とする証文を書かされてしまいました。
一方、1143年(康治2年)、源氏の惣領である源義朝がこの騒動に本格的乗り出してきます。源氏と千葉一族とのつながりについては、第21話での「前九年・後三年の役」の説明の中で述べました。千葉一族が桓武平氏でありながら、結果的に源氏の惣領である源頼朝を押し立てることで大繁栄したのは、このころからの「強い絆」があってのことだったのです。
この語源となる出来事を簡単に説明します。ある老人が飼っていた馬が逃げ出した(不幸)けれど、しばらく後その馬が立派な馬を引き連れて帰ってきた(幸福)。しかし、老人の息子がその馬から落ち足を骨折(不幸)。結果、足が不自由であることを理由に息子は徴兵を免れた(幸福)。
千葉一族の長い歴史そのものが「塞翁が馬」という解釈もできそうですが、そもそも歴史の営みそのものが「塞翁が馬」といえるのかもしれません。
それでは、千葉常重常胤時代に発生した、相馬御厨をめぐる一連の騒動をみていきましょう。常重が相馬御厨を伊勢神宮に寄進した5年後の1135年(長承4年)、常重は常胤に家督を譲ります。ここに、かの有名な千葉常胤が誕生したわけです。しかし、この翌年の1136年(保延2年)に、下総の国司である藤原親道(ちかみち)は、公田官物の未納を理由に常重を召し捕らえてしまいます。忠常のころまでは拮抗していた国司と有力地方豪族の力関係が、院の後押しにより国司が絶大な権力を握るにいたったことがわかるエピソードでもあります。捕らえられた常重は、相馬郡と立花郷(後の橘庄、香取市、香取郡東庄町)を親道に譲る、とする証文を書かされてしまいました。
一方、1143年(康治2年)、源氏の惣領である源義朝がこの騒動に本格的乗り出してきます。源氏と千葉一族とのつながりについては、第21話での「前九年・後三年の役」の説明の中で述べました。千葉一族が桓武平氏でありながら、結果的に源氏の惣領である源頼朝を押し立てることで大繁栄したのは、このころからの「強い絆」があってのことだったのです。
【著者プロフィール】
歴史噺家 けやき家こもん
昭和46年佐倉市生まれ。郷土史や伝説をわかりやすく、楽しく伝える目的で、落語調で歴史を語る「歴史噺家」として活動。著書に「佐倉市域の歴史と伝説」がある。
歴史噺家 けやき家こもん
昭和46年佐倉市生まれ。郷土史や伝説をわかりやすく、楽しく伝える目的で、落語調で歴史を語る「歴史噺家」として活動。著書に「佐倉市域の歴史と伝説」がある。
このまとめ記事の作者
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