清和源氏と常胤の「重たい絆」相馬御厨顛末記 中編 【稲毛新聞2025年7月号】
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2025/7/3
千葉常重は代々の所領であった相馬を伊勢神宮に寄進しました。しかし、下総の国司である藤原親道が、常胤の父常重を「公田官物(いわゆる年貢)未納」の理由で捕縛し「相馬の所領を親道に譲る」とする証文を書かせた経緯を前回説明しました。
千葉一族盛衰記 第二十六話

源義朝登場
この紛争に、上総における源氏の御曹司としてその名を知られた源義朝が介入してきます。この人物は、後に平安末期の内乱「保元の乱」で、勝ち組である後白河法皇側につき東国武者をたばねて戦った活躍をかわれ、「武家の棟梁」とも言うべき左馬頭(さまのかみ)に任官されながら、後の「平治の乱」では一転して後白河に背き「敗軍の将」として獄門にかけられ悲劇的な最期を遂げます。
なお、義朝が勝利した「保元の乱」の軍勢の中に、若き千葉常胤が名を連ねていたことで、後の千葉一族の運命が決まりますが、それはもう少し後の話。また義朝は、鎌倉の世をこじ開けた源頼朝の父であったことは、あまりに有名です。
譲状と再度の寄進
義朝が行ったのは、常重から相馬の所領の譲状を書かせることから始まりました。ここで奇妙なのは、常重の相馬の所領は、「年貢の未納」を理由に藤原親道に奪われたのではなかったか、という点です。合理的な現代の法を前提とすれば、相馬の所領に関する争いは、すでにその管理権限を所有する親道との間になされるべきと思いがちですが、この時代の常識は違います。例えば、土地に権限がある人物の政治的な影響力が減衰したり、朝廷や寄進先(この場合伊勢神宮)内部の権力闘争による「権力の隙間」が発生した場合などは、土地の所有権や管理権限はくるくると変わっていきます。
その時代を背景に、義朝は相馬の土地を改めて伊勢神宮に寄進しました。今後は、誰が、どれだけ適切な時機に、どれほど豪華な寄進物を、どれだけ高い権力者に、いかに隙の無い理由付けで納めることができるか、それ次第で相馬御厨の管理者が決まっていくのです。
※写真:源義朝の墓(野間大坊)
湯殿で殺された義朝は「我れに木太刀の一本なりともあれば…」と、丸腰であった自分の無念を叫んだと言われていることから、義朝の墓には現在も多くの木太刀が奉納されています。
この紛争に、上総における源氏の御曹司としてその名を知られた源義朝が介入してきます。この人物は、後に平安末期の内乱「保元の乱」で、勝ち組である後白河法皇側につき東国武者をたばねて戦った活躍をかわれ、「武家の棟梁」とも言うべき左馬頭(さまのかみ)に任官されながら、後の「平治の乱」では一転して後白河に背き「敗軍の将」として獄門にかけられ悲劇的な最期を遂げます。
なお、義朝が勝利した「保元の乱」の軍勢の中に、若き千葉常胤が名を連ねていたことで、後の千葉一族の運命が決まりますが、それはもう少し後の話。また義朝は、鎌倉の世をこじ開けた源頼朝の父であったことは、あまりに有名です。
譲状と再度の寄進
義朝が行ったのは、常重から相馬の所領の譲状を書かせることから始まりました。ここで奇妙なのは、常重の相馬の所領は、「年貢の未納」を理由に藤原親道に奪われたのではなかったか、という点です。合理的な現代の法を前提とすれば、相馬の所領に関する争いは、すでにその管理権限を所有する親道との間になされるべきと思いがちですが、この時代の常識は違います。例えば、土地に権限がある人物の政治的な影響力が減衰したり、朝廷や寄進先(この場合伊勢神宮)内部の権力闘争による「権力の隙間」が発生した場合などは、土地の所有権や管理権限はくるくると変わっていきます。
その時代を背景に、義朝は相馬の土地を改めて伊勢神宮に寄進しました。今後は、誰が、どれだけ適切な時機に、どれほど豪華な寄進物を、どれだけ高い権力者に、いかに隙の無い理由付けで納めることができるか、それ次第で相馬御厨の管理者が決まっていくのです。
※写真:源義朝の墓(野間大坊)
湯殿で殺された義朝は「我れに木太刀の一本なりともあれば…」と、丸腰であった自分の無念を叫んだと言われていることから、義朝の墓には現在も多くの木太刀が奉納されています。
【著者プロフィール】
歴史噺家 けやき家こもん
昭和46年佐倉市生まれ。郷土史や伝説をわかりやすく、楽しく伝える目的で、落語調で歴史を語る「歴史噺家」として活動。著書に「佐倉市域の歴史と伝説」がある。
歴史噺家 けやき家こもん
昭和46年佐倉市生まれ。郷土史や伝説をわかりやすく、楽しく伝える目的で、落語調で歴史を語る「歴史噺家」として活動。著書に「佐倉市域の歴史と伝説」がある。
このまとめ記事の作者
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